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第2回国民体育大会(石川国体)について

第2回国民体育大会 ~石川県金沢市を中心に開催~

昭和22年(1947年)開催
【主催】 大日本体育会(現:日本スポーツ協会)
【後援】 文部省、石川県
・夏季大会 8/22~24   松任町(水泳)
・秋季大会 10/30~11/3  金沢市、小松市、七尾市など

【秋季大会開会式会場】
金澤市運動場(金沢市営陸上競技場)
金澤市運動場では、陸上競技のほかラグビー、馬術、自転車、マラソン(発着)が行われました。

【秋季大会観衆動員数】
金澤市運動場 4万人、兼六球場 3万人、その他 1万人
観衆の総計は約50万人、金沢市内の人出は連日8万人だったそうです。

第2回国民体育大会(夏季大会)ニュース映像
第2回国民体育大会(秋季大会)ニュース映像
NHKアーカイブスホームページより

第2回国民体育大会(石川国体)開催までの道のり

1946年(昭和21年)に始まった「国民体育大会」は戦後、最も長い歴史を持つスポーツ大会です。

第1回大会は、戦災を免れた京都を中心とする近畿地区で開催されましたが、戦後直後ということで規模も小さく施設も十分ではありませんでした。
第2回石川国体から沖縄県を除く全都道府県の参加者が参加して開催されました。

当時、石川県は、「結核」死亡率が全国一の結核ワースト県でした。
また、戦火を免れた石川県においても衛生環境の悪化や食糧難、人心の荒廃が深刻な問題でした。

そんななか、当時の金沢市長であった武谷甚太郎は、金沢市を全国随一の文化都市に飛躍させようと「文化都市建設」構想を打ち出しました。

その中に、「市設運動場を整備し国体誘致を行うこと」が事業構想の中にありました。

武谷甚太郎市長は、金沢市出身のオリンピック選手だった大島鎌吉氏に第2回国体誘致の協力を依頼しました。そして、県、市、経済界、競技団体が一丸となって国体誘致に取り組むことになりました。

国体の招致理由としては次のことが挙げられました。「①文化都市としての金沢市は、低調な北陸体育文化の高揚を図り、体育施設を充実したい。②日本一の結核県としての不名誉を挽回し、県民の健康増進とその積極性の向上を図りたい。③開催準備費として1,500万円準備する。」(⑦47頁)

戦後直後の混乱期でもあり、国体誘致運動の展開と共に食糧難や民需用復興資材の浪費を理由に反対運動も起こりました。

しかし、武谷甚太郎市長の「金沢の「文化都市」構想の一環として、体育・スポーツ施設を充実させるとともに、敗戦による祖国再建に非戦災地金沢・石川県が貢献すべきであるという強い信念」(⑦51頁)と関係者の尽力により石川国体は実現しました。

そして、この第2回石川国体の大成功により、これまで東京などの大都市でしか開催されなかった権威ある大会の地方開催の実現や各都道府県持ち回り制などその後の国体の運営に対する大きな意味を持つ大会となりました。

画像:北国毎日新聞(昭和22年10月31日)

<第2回石川国体がもたらした重要な意義>

・スポーツの民主化
・権威ある大会の地方開催と各都道府県持ち回り制の始まり
・「若い力」と「大会マーク」の制定
・大会旗の制定と大会旗リレー

選手たちは「米」を持参で大会参加

国体反対運動が起こった際に理由のひとつとなった「食料難」については主食の米を選手各自が持参することで解決を狙いました。

国体報告書には、「主食調味料は各自必ず持参するよう参加者に対し徹底をはかる。副食物の野菜、魚類は夫々正規の機関を通じて特配を受け宿舎に配給した。」(①46頁)との記述があります。

大会標語に応募殺到

~なんと全国から2,910件の応募~

募集した大会標語は、全国から2,910件もの応募がありました。
※画像:第2回国民体育大会パンフレットより(玉川図書館所蔵)

<標語を募集するにあたってのテーマ>
「明朗にして民主主義的なスポーツマンシップを皷吹(こすい)せるもの」

 ※皷吹(こすい)・・・励まし、元気づけること。

石川県準備委員会が選定した大会標語は以下のとおりです。

◎体育だ熱だ力だ再建だ(石川県小松市 男性)

◎スポーツで明るく興せ新日本(大阪府大阪市 男性)

◎頑張るぞ日本の飛躍を体育で(石川県金沢市泉野町 男性)

擧(こぞ)つてスポーツ明るい日本(石川県能美市 男性)

◎スポーツに示せ日本の美と力(石川県小松市 男性)

「若い力」合唱団について

第2回国民体育大会(石川国体)に際して作られたのがスポーツの歌「若い力」です。
その時、この歌に合わせて創作された「若い力の演技」も小将町中学校の合唱団の合唱によって開会式で披露されました。

当時合唱団に選抜され、合唱した山下和子さん(野々市市在住)から当時の記憶をもとにお話を伺うことができました。

当時、小将町中学校一年生(当時の中学校は、高岡町中学校と小将町中学校の2校のみ)
※小将町中学校は50人のクラスが28クラス

戦後の混乱期でトイレもない教室も足りないにわかごしらえの校舎に大人数の生徒が詰め込まれており、とても学業に重点を置くような状況ではなかった。

そんな中、降ってわいたような国体の開催決定。

急きょ、「若い力」の合唱のため、小将町中学校の生徒で合唱団を編成することになった。
各クラスから4~5名の生徒を選び、その中からさらに20名あまりの生徒が選抜され合唱団が編成された。

とにかくバタバタした状態での合唱団の編成であったので、どのような基準で選ばれたのかも全く分からなかった。

合唱団編成後は、楽譜一枚のみ渡されて、先生のピアノの演奏に合わせて何度も何度も練習した。

学業そっちのけで、毎日毎日午後からは合唱の練習をしていた。

日が迫り、金澤市運動場で合唱団とブラスバンド、若い力の演技の合同練習が2~3回行われた。

ブラスバンドは市立工業高校、若い力演技は全市立小学校の6年生であった。

そして、国体当日、天皇陛下は特に護衛などもなく、競技場内を歩いて来賓席についた。

合唱団は天皇陛下の席の最下段にあたりに位置し、マイクを何本か立てて歌声はスピーカーから流れた。

若い力演技の児童たちは、両手を広げて間隔を測り、合唱団の歌に合わせて演技した。

第2回国民体育大会の評価

大日本体育会 清瀬理事長

「石川県が悪条件を克服してよくここまでやって本当に感謝している。連日好天気に恵まれこの成果をあげたことはスポーツに関心の少ない石川県民のスポーツ観を向上すると共に他府県に対してもよい刺激を与えたことと思う。次期大会の招致運動がとみに活発になったことが証左である。選手の宿泊、運輸の点に不備なところがあったがあらゆる困難にたえて行くところに新生日本の国民体育大会の意義が存するのであって選手諸君はそのいみで辛抱していただきたい。記録的な面からみてもっとも痛切に感じたことは食糧事情の悪いことではなく運動具の不足である。そのことは陛下も御気づきになっておられ私からも申しあげておきました。」(①79頁)

戦後間もない時期ということもあって、スポーツをする環境や用具がまだまだ整っていないことが懸念されています、そんな中にあっても関係者の努力で無事大会を成功させたことに高い評価をされています。

金沢市運動場(金沢市営陸上競技場)の評価

日本陸上競技連盟 平沼会長

日本陸上競技連盟 平沼会長によると、「金沢市は全国的にみても大都市とはいえない。その金沢市が短時日にあれだけの競技場を作ったということは実は私も驚いている。競技場の生命ともいえるアンツーカーの細粉に何か特殊なものを混合してつくってあるというが硬度点も現在のわが国では最上のものだと思う。陸上競技の初日は連日の雨があがってコンディションはすばらしかったが、こんな天候のためばかりでなく排水の具合も結構だったと思う。フィールドの割り振りもうまくいっているし将来のグラウンドはみなこんな設計で行くべきだと思う。」(①79頁)という非常に評価の高いコメントを残しています。

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【出典、引用、参考文献】

①第二回国民体育大会報告書 第二回国民体育大会石川県準備委員会/編 1948

②第二回国民体育大会写真帳 第二回国民体育大会石川県準備委員会/編 1948

③第二回国民体育大会パンフレット(金沢市立玉川図書館所蔵)

④金沢市教育委員会五十年史 金沢市教育委員会五十年史編纂員会 金沢市教育委員会 2005

⑤金沢の百年 大正・昭和編 金沢市史編さん室/編 金沢市 1967

⑥新聞で見る75年史 昭和後編 北国新聞縮刷版編集委員会/編 北国新聞社 1968

⑦第2回国民体育大会(1947年石川国体)に関する研究(1)-その構想と準備について-大久保英哲 特任教授(金沢星稜大学人間科学科スポーツ学科) 2019

⑧稿本金澤市史学事編第三 金沢市役所 名著出版 1973

⑨金澤市例規類集 金沢市

⑩北国新聞 平成499日(水)夕刊

⑪第29回金沢市立小学校連合体育大会について(案内文) 金沢市立小学校連合体育大会実行委員会 令和元年9月吉日

⑫時系列地形図閲覧サイト「今昔マップon the web」((C)谷謙二)